近代常滑の急須の系譜

その一 二代山田陶山
陶工であり知識人 その卓越した博識
「和」茶器 茶器 中国茶葉
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お茶と急須についての概説
山田陶山

 中国茶の歴史の章

 茶の原産地は印度のアッサム地方で、この茶の木が中国四川省地方に伝播して、中国茶の起原をなしたと
考えられております。喫茶の風習のおこりは、中国であるといいますが、古い時代には主として医薬品として用いられていたようで飲み物として広く一般に用いられだしたのは隋、唐の時代からです。
それにともなって製茶業も大いに発展してきました。この頃には、まだ緑茶は製出されておらず、団茶といって
(茶餅とも言います)お茶の葉を蒸して臼でついて餅のような形にして乾燥させたものを必要なときにこまかく削って、これに熱湯をそそぎ薬味を加えて、かきまわして飲んでいたと言います。次代の宋朝は、その末期には異民族の金の侵攻によって華北の地を追われて江南地方にのがれ、ここに南宋を樹立しますが、浙江、江蘇省地方は気候温暖であって、土地も肥沃で、物資も豊富なところなので、かえって幸いして文化面でも百花繚乱の時代を迎えます。ことに茶は江南地方の特産品でこの頃になると緑茶が盛んに生産されるようになり飲用も簡単となったこともあって一般的に愛飲されるようになりました。有名な画家であり北宋末の風流天使として知られた徽宋皇帝も茶の愛好家で「大観茶論」という茶書は徽宋の撰述になると言います。宋代の文豪の蘇東坡も非常な煎茶の愛好家であったようです。彼の詩には煎茶のことを詠じたものが多く見られます。
この頃になると身分の高下をとわず、お茶は人間の暮らしに欠くべからざる必需品となっていたようであります。

 急須の起源の章

 ここで初めて急須が登場することになります。この品は昔は酒を温める器であって、直接火にかけて
使っていたようです。は用と同義語ですから、その名称のよって来るところも明らかであります。
この頃は先ず涼炉にボウフラ(湯沸し)をかけて沸騰したお湯の中へ茶の葉を投入して煎じたものを
茶碗に注ぎわけて飲んでいたようです。これは、今日の煎茶家たちの言う上投法であります。
こうして需要が急増してきたので江南各地の窯場で初めて茶器として急須が生産されるようになりました。
急須をかの地では茗壺とか茶注子とも言っております。この珍らしい茶道具はわが国へも輸入されて
異国情緒ということもあってか足利義政なども相当熱愛して数々の名品を蒐集していたようです。
彼の所蔵品を図写した「足利家茶瓶四十三品図録」と称する古写本が後世に伝えられております。
茶器もはじめは当時の民家で使用されていた酒気を転用していたこととて素焼の粗末な品でしたが明代
なると江蘇省の宜興窯で初めて朱泥、白泥、などの急須が発明せられました。
明代の供春、時大彬、李仲芳や清代の恵孟臣、留佩などは、その代表作家であります。

 日本のお茶の章

 わが国ではお茶は平安末期に唐へ勉強に行っていた伝教大師が初めて茶の種を将来して近江の坂本
植えたと言います。更に鎌倉時代になって栄西禅師が宋から帰朝する際に持ち帰った茶種を筑前の背振山
にまいて、今日の日本茶の基をひらいたことは周知のことであります。抹茶はかなり古い時代から武士階級の
間に用いられていましたが江戸も中頃となり一般大衆の生活水準もかなりに高くなるにつれて町人達の間にも
茶を愛飲する風がひろまってきました。殊に文化人の間には、いわゆる文人趣味が勃興してきて煎茶家として
後世までその名を伝えられる人々が続出しております。上田秋成、村瀬栲亭をはじめ頼山陽、田能村竹田
青木木米などその最たるものあります。京洛の地でこうした時代の要求によって京焼の名家たちにより
急須なども追々製作されるようになりました。

 常滑の章

 わが常滑は平安時代このかたの陶業地で古くは甕や壺などを生産していたのですが、江戸中期に至り、
稲葉高道が遠州の秋葉山に伝えられていた「足利家茶瓶四十三品図録」の古写本を譲り受けてきて、
此の図によって茶器の製作を始めたと申します。やがて、文久年間に常滑の医家平野忠司の指導により
杉江壽門、片岡二光が初めて朱泥の急須をつくり出し、明治十一年には鯉江方寿が清人金士恆
招聘してきて寿門、長三らに中国風の茶注の製法を伝習させ、ここに宜興窯の古名品に劣らぬ急須が
製作されるようになりました。初代山田常山、山田陶山等はこの系統に属する作家であります。

 無釉の焼物の章

 富岡鉄斎は、慶応三年の冬に、江陰(地名)の周高起の著書「宜興瓷壺譜」を和訳して刊行しましたが、
その序文の中で「淹茶は泥壺より佳きは無し」と言っております。これはすでに中国の古作の急須にも銀や
錫などの金属製や磁器の精巧な品など色々あるけれど、その何れもがお茶をおいしく出すという肝心な点で
朱泥のような無釉の土ものに、とても遠く及ばないことを言っているのです。これは、緑茶ばかりでなく紅茶の
場合でも同様で普通のティーポットで出したティーと朱泥、白泥などの急須を用いて出したティーとはその味が
まったく違うのはわれわれもよく体験しているところです。

 常滑の現況(1980年)

 近来常滑製の茶器は広く世に迎えられて販路の拡張はおどろくべきものがあります。
これは、作家それぞれの精進と商人衆のご努力のいたすところと思いますが、その根底にはこの土ものの
茶器特有の本質的なよろしさがあってのことと存じます。お互いになお一層研究をすすめて、
ますます郷土の陶芸の真価を発揚したいものだと思います。

                                             (茶器作家名鑑より転載)


              二代山田陶山 山田義昌(1907-1998)の経歴

初代陶山(1878-1941)より作陶を学び、常滑陶器学校で彫刻、絵画を学ぶ 同校助手になる。
阪和電鉄経営の「陶園」勤務  表千家の久田宗也に入門する。
昭和16年より常滑で茶道具、茶器の作陶と伴に陶芸史を中心に各方面の研究活動をした。
急須の歴史、研究の第一人者である。


お茶と急須についての概説」は、昭和55年(1980)常滑の常滑焼茶器陶工名鑑編集委員会(急須の窯元、メーカー、常滑市商、工組合)が編纂した常滑焼茶器陶工名鑑山田陶山氏が寄稿したものです。幅広い歴史的考察とその深い内容は現在の日本茶、中国茶又茶文化の振興に対して貴重な資料と考えてその全文を掲載しました。
章はこちらでつけさせていただきました。ご遺族にご了解いただき掲載しました。
尚、より詳しい常滑の歴史は、三代陶山氏のホームページに掲載されています。http://homepage3.nifty.com/touzan/